三木清「人生論ノート」を読む
三木清が命をかけて「幸せ」について書いた本
言葉遣いが多少古いので読みにくいかもしれないが、文章が平易でとても読みやすい。
学校でくだらない道徳の授業をやるくらいなら三木が書いたこの本を利用してみたら
どうだろう?
三木清はこの本を太平洋戦争開始直前の真珠湾攻撃の直前に出版した。
このころの日本は、治安維持法という法律によって、思想や言論を簡単に検閲したり
禁じたりすることができる時代で、これによりたくさんの人間が拘束され、投獄され、
拷問されたりする人がいた。
三木清も拘束され、戦争が終わった直後にに獄中で死亡した。
三木清は、「お国のために」とか「天皇陛下のために」とかいって、周りが戦争一色に
なっている時に人間の「幸せ」について淡々と書いている。
三木清の精神状態はどうであったのだろうか。
周りがバタバタ、ザワザワしている時に心を静かにして、「幸せ」について語るのは
とても大変だったと察するに余りある。
日本は戦時中、こういう哲学者を沢山殺してきたため、日本の哲学はとても乏しいもの
となっていると思う。高校生や大学生が哲学に触れることは、哲学を専攻しない限り
少なくなってしまった。三木のような偉大な哲学者がいるというのに。
今の日本は、物質的豊かさにのみ成功の度合いを測り、親も社会もそればかりを
後押しする社会。物質的に豊かで治安のいい社会でも、幸せを感じられない社会
特に自殺率の高さが、人が幸せを感じられない社会であることの証明と思われてならない。
ぜひ思い出して欲しい。日本にはこんなに骨太な哲学者がいたということを、こんなに真摯で温かい心の思想課がいたということを。
旅行や映画などの娯楽の1つとして、頭で哲学することを人生の楽しみとしてやってみて欲しい。今までとは違った楽しみがあるはず。
以下引用「幸福について」
こんにちの人間は、幸福について
殆ど考えないようである。
試みに近年現れた倫理学書
とりわけわが国でかかれた倫理の本を
開いてみたまえ。
只の一箇所も幸福の問題を取り扱っていない
書物を発見することは諸君にとって甚だ容易であろう。
むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせて
しまったほど不幸なのではあるまいか。
幸福を語ることが
すでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど
今の世の中は不幸に充ちていることではあるまいか。
幸福の要求がすべての行為の動機であるということは
以前の倫理学の共通の出発点であった。
現代の哲学はかような考え方を心理主義と名付けて
排斥することを学んだのであるが
その時他方において
現代人の心理の無秩序が始まったのである。
この無秩序は自分の行為の動機が
幸福の要求であるのかどうかが
分からなくなったときに始まった。
幸福の要求が今日の良心として
復権されねばならぬ。
幸福は徳に反するものでなく
むしろ幸福そのものが徳である
我々は我々の愛するものに対して
自分が幸福であることよりなお以上の善いことを
為し得るであろうか